LOGIN夕陽が地平線の彼方へと姿を消し、欠け始めた月が焦らすように東の空を淡く照らし始めた。秋の夜風でたなびく灰色の雲は焦らすようにゆっくりと昇ってきた居待月をなきものにしようとしていた。
リスルは牢から出され、篝火の焚かれた礼拝堂前の広場へと視察部隊の僧兵数人に伴われて連れてこられた。炎に照らされた人々の顔には恐れや哀れみといった感情が浮かんでいた。涙を流す両親や弟の姿が視界に入り、彼女は目を逸らした。 広場の中心に屹立する巨大な木の十字架にリスルはくくりつけられた。足元には燃えやすい藁や木屑が積まれている。彼女の前に聖典と法杖を手にしたジークが悠然と立った。彼女は法衣を纏った中年の小男を緑色の双眸にきつい光を浮かべて睨み下ろす。彼は意に介したふうもなく、冷えた声で訥々と聖典で定められた悪魔に関する一節を読み上げていく。 「リスル・フレンツァ。汝は悪魔と契約し、呪われた力を以って現世を混乱に陥れた。その身と共に内に宿りし悪魔の祝福を神の炎を以って滅する。汝、その生命を神へと捧げ、その大罪を贖うことをここに誓え。神はその広い御心をもって、その魂を赦すだろう」 「誓わない。そんな冤罪、絶対にわたしは認めない。大体、悪魔悪魔って……もし悪魔なんてものが本当にいるんだとしたら、それはあなたたちのことよ、ジーク・マーセル司教!」 リスルはジークを見据え、はっきりとそう言い放った。ジークの右手に握られたやたらと装飾過多な杖が閃いた。杖の先端に施された神の使いを模した装飾がリスルの左脇腹を抉り、服の切れ端と共に赤い液体が宙を舞った。 ジークは不快げにリスルへ一瞥をくれると、背後に控えていた僧兵へと短い一言を発した。 「やれ」 「御意。……おっと、そうだ」 神聖騎士団の印が刻まれたプレートアーマーに身を包んだ男は軽薄そうに口元を歪めた。目には面白がるような色が見える。 「ジーク司教。一個面白い余興があるんだが……」 僧兵の男に何事か耳打ちされたジークはいいだろうと鷹揚に頷く。 ジークの許可を得た僧兵は、にやにやとした笑みを浮かべながら、遠巻きに事態を見守る群衆へ向けて問うた。 「おい、あの女の家族ってのはどこにいる?」 「……」 人々は押し黙ったまま答えなかった。しかし、ちらちらとした視線がラルゴたちを掠めていく。へえ、と露骨に状況を楽しみながら、男はラルゴに近づいていく。 「ふうん、お前があいつの父親か。来いよ」 男は群衆の中からラルゴを引きずりだすと、その背中を蹴った。恰幅の良い身体は、広場の中心へと転がっていく。僧兵の男は先端に布を巻いた木の棒を篝火に近づけて着火させると、ラルゴを無理矢理立ち上がらせ、その手に押しつけた。 「娘が悪魔の祝福を受けた眷族だって言うんなら、その親もそうかもしんねえよなあ? 違うってんなら証明してみろよ、てめえでてめえの娘に手を下すことでなあ!」 リスルの周囲を固めていた僧兵たちがそれはいい、と下品な笑い声を上げた。僧兵の男は腰にはいたテンプルソードを抜き放つと、背後からラルゴの首筋へと突きつけた。皮膚の表面が切れて、うっすらと血が滲んだ。 「ほら、やれよ。やれ。死にたくねえだろう?」 ラルゴは歯を食いしばった。松明を握る手が震え、火影がゆらゆらと揺れている。 躊躇うラルゴへそっとリスルは言葉をかける。 「父さん。いいよ。やって。早く」 「リスル……」 いいからさっさとやれよ、と周囲から僧兵たちの唾混じりの野次が飛ぶ。意を決したようにラルゴは青い目を伏せる。 「リスル……ごめんな」 うわああああ、と叫びながら、ラルゴはリスルの足元へと松明を振り下ろした。勢い余って彼の手から放り出された松明が地面を転がっていった。うっわ本当にやったよこいつ、と笑い声が上がった。 リスルの足元の着火剤へと火が燃え移り、煙が上がり始める。炎は次第に大きくなっていき、ボロ同然の彼女の粗末な服の裾へと引火する。剥き出しの素足を揺らめく炎が舐めていく。べろりと皮の剥けた足の皮膚組織の深くまで焼いていく熱さにぎりぎりと彼女は歯を食いしばって耐える。 徐々に勢いを増していった炎は、やがて広場に突き立てられた巨大な十字架をリスルごと包み込んだ。 熱い。痛い。心の中で悲鳴を上げながらも、リスルは毅然とした態度を崩さなかった。ここで泣き叫んで命乞いをしようものなら、ジークたちの思う壺だった。彼らのために見世物になってやる気など毛頭なかった。自分に対する仕打ち以上に、ラルゴに対する先程の残酷なやり口が心底許せなかった。リスルの明るいグリーンの双眸に怒りの炎が宿る。 顔に纏わりつく茶色の巻毛からタンパク質が焦げる匂いがする。しなやかな四肢は焼け爛れ、煤けて真っ黒になっていた。立ち登る煙を吸い込んだリスルはけほけほと咳き込んだ。 『思い描きなさい……その身を縛る枷が焼け落ちる様を……』 身体を燃やし尽くさんとする業火の中で、リスルは誰かの声を聞いた。幻聴か、と彼女はぼんやりと思う。もうすぐ自分は死ぬのだろう。 『手足へ意識を集中させなさい……その身を解き放ってあげましょう……』 再び、知らない声がリスルへと話しかけた。頭に直接響いてくるようなその声になぜか抗う気が起きなくて、彼女は感覚が鈍麻しつつある指先と足先へと意識を集中させる。彼女は目を閉じると、謎の声に促されるまま、脳裏で炎の輪を強く思い描いた。 リスルは手首と足首を何かが撫でるのを感じた。目を見開くと、彼女を木の柱に縛り付けていた縄が焼け落ち、身体がふわりと解き放たれた。波打つ彼女の髪は炎のような赤色へと変わり、グリーンだった瞳も髪と同じ色を湛えて爛々と光を放っている。 落下する彼女の身体を呑み込もうとしていた炎が大きく二つに裂けた。彼女は地面へとそっと降り立った。彼女の利き手を中心として、大きな炎の渦が集まってくる。それは不思議なくらい熱さを感じさせず、彼女を傷つけることはなかった。 「これが……『悪魔の力』……」 リスルが生きたまま焼かれるのを遠くから見ていた誰かが呆然と呟いた。その言葉を皮切りに広場にざわめきが広がっていく。ジークは言葉を失い、身体を震わせながら地面にへたりこんでいた。 「あの姿を見ろよ……あんなの人間じゃねえ!」 「魔女だ……リスルは悪魔の祝福を受けた魔女だ……!」 魔女という単語が恐怖とともに人々の間を伝播していく。その様子をリスルは異様なくらい冷めた気持ちで見ていた。 リスルは体の中で得体の知れない何かが暴れだすのを感じた。彼女は沸き起こる衝動を必死で抑え込もうとするが、”何か”は彼女の身体という殻を突き破って出てこようとする。彼女を取り巻く炎の渦が大きく膨らんでいく。本来なら彼女を骨まで残さず焼き尽くすはずだった業火は今や礼拝堂の建物を余裕で飲み込んでしまいそうなほどの大きさに達していた。 『与えましょう。あなたを害するすべてを薙ぎ払う力を』 先程とは違う声がリスルの頭の中で響き、彼女の体内で大きな力のようなものが弾けた。体の中から力の奔流が吹き出し、何の予兆もなく発生した竜巻が広場を襲う。リスルを取り巻いていた巨大な炎は強い風に嬲られ、辺り一面に火の粉を降らせた。 風に流された炎により、礼拝堂の建物が燃え始める。炎は次第に勢いを増していき、近くの建物へ延焼していく。連鎖するように辺りに火の手が回っていき、広場は蜘蛛の子を散らしたような騒ぎとなっていた。 人々が広場から逃げ出し始めたころには、アルクスの町は火の海と化していた。煉獄の炎と同じ色の双眸に映るこの世の地獄のような光景にリスルは呆然と立ち尽くす。これは結果的に自分が引き起こしたことなのだということだけは理解していた。 逃げなきゃ、とリスルは感情の抜けた平板な口調で呟いた。命を失いはしなかったもののどのみちもうこの町にはいられない。家族の安否は気にかかるが、それも今は捨て置くしかなかった。 リスルは焼け爛れてぼろぼろになった足を引きずって、燃え盛る炎の中へと姿を消した。 逃げ惑う人々に絶え間なく襲いかかる炎の波は歩み去る彼女の身体を受け入れ、傷つけることはなかった。燃え盛る町を出たリスルは、少し離れた場所にある丘の上からその光景を眺めていた。少し肌寒いくらいなのに、僅かに湿り気を帯びた空気が肌に纏わりつく。
建物があらかた燃えてしまったのか、町を焼く炎は勢いを失っていた。あちこちで残り火がちらちらと揺れているのが遠目にも見てとれた。 リスルは木の根元に腰を下ろすと、煤で黒く汚れた膝に顔を埋める。まだ赤いままの髪がふわりと広がった。 教会の言う通り、自分は本当に魔女なのかもしれないとリスルは思う。得体の知れない”何か”の声を聞き、促されるままにこのような恐ろしいことを引き起こしてしまった。扱いきれない力を抑えきれずに暴発させ、多くの命を奪ってしまった。自分が幼いころから慣れ親しんできたこの力の正体が便利なだけのものではなく、本当はこんなにも恐ろしいもの――聖典に記されいる『悪魔の力』だとは思ってはいなかった。 木の上から何かがぽとりと降ってきて、それ――傷ついて汚れた小鳥をリスルは火傷を負った手のひらで受け止めた。手の中の小鳥はぐったりとして動かない。美しい青緑のグラデーションを描いていたはずの被毛はところどころ黒く焼け焦げていた。自分のせいでこんな小さな罪のない命まで巻き込んでしまったと思うと、リスルの胸は張り裂けてしまいそうだった。 リスルは手で優しく傷ついた小鳥を包み込んだ。せめて、目の前の小さな命だけでも救うことができたならと思った。ひどく傷ついた身一つで何も持ってはいないけれど、残されたこの命をもしこの小鳥に与えてあげられるのなら、と彼女は願う。 どくり、とリスルの心臓が鳴った。彼女は気づかなかったが、いつの間にか、髪と瞳の色味がまたほんの少し変わり、朝焼けのような赤色になっていた。 彼女の手の中で小鳥はほのかな光に包まれている。瞬く間に、小鳥の傷が癒えていき、彼女の手を離れて飛び立っていった。全身に重たい倦怠感が広がっていくのを感じながら、リスルはぼんやりと夜空に溶けて小さくなっていくその姿を見送った。 今のはなんだったのだろうと思いながら、リスルは立ち上がった。しかし、この一夜のうちにあったことを思えば、そんなことはどうでもいいような気がした。物を考えるのも億劫なほど疲れていた。 リスルは小鳥が飛んでいった東の空を見上げた。その瞳はいつの間にか元のグリーンへと戻っていた。 焼け焦げた茶色の髪の少女は、傷ついた身体を引きずりながら、朝の来る方角へと歩き出した。 死んでしまった町には静かに夜の闇が降りていた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?